アメリカの製薬会社の都合でクスリが高くなる。
――もうひとつ、最近になって懸念されているのが「知的財産権」の分野です。
この分野についても、日本が米国に要求する項目などなく、米国が日本に要求したがっている項目はたくさんあるようです。私が耳にしているのは、医薬品パテント(特許)についての要求がくるのではないかということです。
米国の製薬会社は高い競争力と多くのパテントを持っていますが、各国政府は国民の健康のために薬価を安く設定しています。すると製薬会社は儲からない。これでは知的財産の保護が十分ではないとして、第三者機関に訴える。米豪FTAや米韓FTAにはそういった制度を設ける項目が入っています。
次のような例もあります。オーストラリアでは、血液製剤を一社が独占的に製造し州政府が無償で配布していますが、米国は、米豪FTAでオーストラリア連邦政府が州政府に血液製剤を競争入札とすべく勧告するようにしたのです。しかし連邦政府が勧告をしても、州政府はすべてこれを突っぱねたそうです。アメリカはこの結果に不満を表明しています。
外圧で構造改革を推進するというウソ。
――知的財産の分野でも、自国に有利なルール変更を迫ってくるという基本的構造は変わらないわけですね。日本政府はTPPがこのような中身だと知った上で、推し進めようとしているのでしょうか。
愚かなことに、TPP推進論者は「他国からの外圧を使って、国の制度を改革するのだ」と言っています。こうした類の発言は、日本の国民主権をないがしろにしたものです。
日本の民主主義は不完全だから国内の制度が是正できない、というわけですが、では米国が、国内に抱える格差問題や銃の問題などを、外圧を使って解決しようとするでしょうか。そんなことはありえません。それでは民主主義の否定です。しかも他国の外圧が自国の利益につながるとは考えにくい。まして日本が相手にしようとしているのは、自国の輸出を倍増させることに躍起な米国なのです。むしろ、日本国民の利益を犠牲にしてでも自国に有利となるような外圧をかけてくることでしょう。
しかし日本では、こうした「外圧による構造改革」論が幅をきかせている。こともあろうに元官僚だった人間がTVで「外圧で国を変える」と、平気で公言している。私は日本の国民主権を守る観点からTPPへの加盟を反対しているわけですが、このような主権を無視した外圧論を好むような国ならば、もはや反対しても意味はない。国民の皆さんにはよくよく、彼らが言っているとおりになってよいのか考えてみてほしいのです。
TPP交渉入りの裏にある隠された意図。
――多大な問題をはらむTPPについて、民主党政権や官僚たちはなぜ、こうも性急に参加しようとしているのでしょうか。「ルール作りに早期に参加する」という表向きの理由とは、異なる意図があるような気がします。
すでに何人かの推進派が口を滑らせていますが、TPP推進の背景にあるものは日米関係の改善です。おそらく、普天間基地移設を巡る問題で悪化した日米関係を何とか是正したい、そのためのTPP推進ということです。尖閣諸島問題が発生したのが2010年の9月で、TPPの議論が国内で始まったのは翌10月であったことから、「日米関係が悪化したままではマズイ」という意識が働いたのではないでしょうか。
もっとも、普天間問題という軍事問題を、経済連携によって解消するということは不可能です。日本の農業市場、保険市場などを米国に差し出したところで、米国は差し出されたものは受け取るでしょうが、普天間の問題は別問題として解決を求めてくるに決まっている。それなのに政府は、日米安保とTPPというまったく別次元の問題をリンクさせたがっているのです。
日米関係改善のために、農業市場、保険市場を犠牲にするとはさすがに言えないので、政府は「TPPで農業を再生する」と言い換えたのです。推進派にしても本音で農業が改革できるとは、考えていないのではないでしょうか。
TPP賛成の自動車業界も実は不利益を被る。
――誰かを犠牲にして自らの失点を挽回しようというのなら、犠牲にされる方はたまったものではありません。国民にこうした情報が開示されつつある今、もっと怒りの声が上がってもいいような気がします。
この問題は農業や医療など、直接被害が及ぶ対象に自分が関わっていない限り、無関心でいられる。だから反対の声が一部からしかあがってこない。ですが、先述したようにTPPの対象は非常に広範にわたっており、例えば、米国は「自動車」などを対象としてきているのです。
米自動車業界は、米国への自動車輸入関税(2.5%)の撤廃に懸念を表明しTPPに反対していますが、こうした関税を撤廃する代わりに「見返り」を要求するという別のシナリオも考えています。それはUSTR(米通商代表部)の資料を見れば明らかで、日本の「エコカー支援策」の撤廃を目論んでいるのです。現に米韓FTAにおいては、関税を撤廃する代わりに自動車の排ガス規制は米国基準に合わせるものとし、自動車税制についても、韓国の主力である小型車に有利な税制から、米国の主力である大型車に有利な税制へと変えさせられることとなっています。
さらに、国民皆保険制度、公共事業における労働力の確保、労働市場のルールなど、生活に直結するありとあらゆるルールが、他国に都合よく変えられてしまうわけであり、一人ひとりの国民が基本的な生活を脅かされてしまうのです。
ですので、「ウチは農家じゃないから関係ない」「ウチは輸出企業だからTPPは有利だ」などと構えていられる問題ではないのです。
どうすればTPPはやめられるか?
――交渉参加を表明してしまった今、TPPの問題点に日本が気付き、交渉協議から離脱することは不可能なのでしょうか。国民が行動することで、結論が覆ることはありえるのでしょうか。
非常に難しいですが、不可能ではないと私は考えます。もしTPPに日本が反対するのだとすれば、2つしか道は残されていません。
1つは、事前協議の段階で国民や国会での反対運動が非常に大きくなることで、米国議会が「これではTPP交渉はうまくいかない」として日本の交渉参加を蹴るという方向です。しかし、これは完全に他力本願な方法であり、かつ、「日本政府は国内の世論をまとめることができないくせに、国外で勝手な約束をする」として信用を失うことになります。一旦参加表明をした以上、それを引っ込めることは約束違反であり、「第二の普天間問題」となってしまうわけですね。
もう1つの方法は、日本の国会が条約を承認しないというものです。ただし、条約締結の承認については、予算と同様で「衆議院の優越」が適用されます。現在の衆院の情勢では、不承認は非常に厳しい。また一般的に、合意した後の拒否というものは、合意前の拒否に比べて著しく労力を要するものです。交渉参加前ですら拒否できなかったものを、果たして拒否できるのでしょうか。
このように、今後のTPP拒否というものは非常に厳しい茨の道です。だから、交渉参加を表明するべきではなかった。しかしながら、仮に今後、日本の国民がTPPに猛反対し、参加を拒否したからからといって、日米関係が決定的に悪化するとは私は思いません。
なぜならアメリカは民主主義を理念として尊重する国家であり、日本の国民であるとはいえ民衆の合意を敵に回すことはできないからです。現に米国は、親米派であったエジブトのムバラク政権について、民衆の反ムバラク運動が起きたら、支援しませんでした。米国はその国の民主主義までも敵には回せないのです。
さらに言えば、米国の現在のグランドストラテジーにおいて、TPPの優先順位は必ずしも高くありません。まず真っ先に解決しなければならないのは欧州の経済危機であり、ついで国内の景気、崩壊の予兆を見せている中国バブルへの対処です。ですので、TPPを拒否したところで、米国を本気で怒らせるということはありえないのです。
むしろこれからの時代、米国はTPPだけでなく様々な要求を突き付けてくるに違いありません。国内の景気は収縮する一方であるため、輸出倍増に躍起になっているわけで、その様相はまるで「プレデター」と化している。TPPごときが跳ね返せないようでは、この先日本は餌食にされ続けてしまうのです。
***
――TPPの問題は、米国の本質を浮き彫りにしているわけですね。それと同時に、日本政府の無為無策ぶりもあらわになっているのではないでしょうか。
TPP問題を通じて、「官僚は優秀である」という神話が崩壊しました。経済産業省(旧・通産省)の官僚に関して言えば、昔の高度経済成長の時代は、企業の利益にくっついていさえすればよかった。企業の利益が国民の利益に直結する時代だったからです。しかしグローバル化が進行した現在、企業の利益と国民の利益は必ずしも一致しなくなっています。企業にとっての「国際競争力の強化」とは、賃金の抑制とリストラを意味しているわけであって、これでは国民の利益とは言い難いのです。
それでもなお、大半の経産官僚は時代の変化に対応できず、企業の利益にべったりくっついている。だから、国民の利益に反するようなことを平気でするのです。
このような国のかたちで、プレデターである米国と対峙できるのか。TPP問題は、国際社会における日本のありかたを問い直すものとしなければならないのです。
■中野剛志 プロフィール
(なかの・たけし) 京都大学大学院工学研究科准教授。東京大学教養学部を卒業後、1996年に通産省(現・経済産業省)に入省する。資源エネルギー庁を経て2000年より英・エディンバラ大学に留学、同大博士号(社会科学)を取得。経済産業省産業構造課課長補佐を経て2010年より京都大学に出向、翌年より現職。専門は経済ナショナリズム。主な著書に『国力論―経済ナショナリズムの系譜』、『自由貿易の罠―覚醒する保護主義』、『TPP亡国論』など。